(1)
不思議な男――彼の第一印象は、そんな感じだった。
私は今日も、朝の礼拝よりもずっと早くに教会へ足を運び、一人祈りを捧げる。
日中は人でにぎわう礼拝堂も、こんな日もまだ昇りきらないような時間では、私を除けば誰もいない。
私にとってこの静寂が、生きがいにして至福だった。
もちろん日常の礼拝も欠席するなどありえないことだが、心から祈りを捧げるにはあまりにも人が多すぎる。
あの時間はただ信仰するのみで、私の言葉など、多くの人間の声にかき消されてしまい神には届かないだろう。そう思う。
でもこの時間だけは、神とひとつになり、真に奉仕できる――そんな気がしていた。
そして私は祈りを終え、礼拝堂から寮へ続く廊下を歩く。
礼拝堂へ向かっていたときは暗かった廊下に、やわらかな朝日が差し込んでいた。
(今日もいい天気だ……ん?)
朝日に目を向けると、そこに人の影が窓の隅にあることに気づいた。
私のほかに誰かいるのだろうか、こんな時間に。
盗賊ならば一大事だ。そう思い、外に出て慎重にその影があった場所へと近づく。
その場所は、教会の広い庭の中でも最も人の気配がないだろう、裏の隅の方。
そこにいたのは、一心不乱に剣を振る一人の男。
落ちる汗が、彼がずっとそこでそうしていたことを物語る。
服装からして、騎士団の者ではなく、一般で教会入りした、僧侶の一人だろう。
私に気づいている様子はなく、ただ熱心に鍛錬するその姿に、私の目は釘付けになっていた。
10分くらい経っただろうか。彼が剣を下ろし一息ついたところで、私もはっと我に返った。
何故こんなに見惚れていたのだろうか。僧侶なんて珍しいわけでもないのに。
「おはようございます。随分と熱心なんですね」
今まで見惚れ続けていたことを隠す意味も込めて、平常を装って彼に話しかけると、どうやら初めて私がいたことに気づいたのか、少し驚いた様子で振り返った。
「おはよう……ございます。もしかして、礼拝の邪魔でしたでしょうか? だとすれば、申し訳ございません……」
「もしかして、いつもここで修練を?」
私が毎朝一人で祈りを捧げていることを知っているような口ぶりに、私は彼に質問を返した。彼は、先程と同様に低い声で、「はい」と短く答えた。
「私の方こそ、貴方の修練の邪魔をしたみたいで申し訳ない。でも、朝錬もあるのでしょう? なぜ今ここで?」
別に今日の今日まで彼の存在に気づかなかったし、礼拝の邪魔という訳ではなかったが、彼がここで何故こんなにも汗を流すのか、ただ気になって尋ねた。
騎士団のそれも厳しいが、特に今まで教育をされていない平民出身の僧侶の朝錬は、相当過酷なもの・・・と聞いている。
それに参加する前にこんなに一生懸命修練を重ねるなど、余程の信仰心か、それとも他に何か理由があるのだろうか?
そして彼は、剣を地面に置き、答えた。
「もちろん朝練もあります。ですが、一人の方が集中できる……好きなんです、朝一人でこうしている時間が」
「ふーん……同じだな」
「……?」
「私も一人で祈りを捧げている時間が好きで、早起きしているんですよ。ああ、誰にも言わないで下さいね。何かあったときに怪しまれる」
少し冗談交じりに笑って言ってやると、彼もまた、かすかにではあるが私に「分かりました」と微笑み返した。
真面目で少し人見知りと言うか根暗な雰囲気を持っているが、話してみればなかなか面白い男なのかもしれない。
「私はクレティアン。騎士団に所属している、魔道士です」
「存じています、クレティアン・ドロワ様。天才魔道士として名高い……」
「貴方の名は?」
どうやら私が誰だか知っている様子だったが、私は自分の話がしたいんじゃない。
彼のことをもっと知りたい――何故だか沸いたその気持ちから、私は彼の言葉を遮り、尋ねた。
「ローファル。ローファル・ウォドリングと申します」
「これからもたまに寄らせていただいても宜しいですか? ローファル」
この日から、礼拝の後に、一人での修練を終え朝練の時間を待つ彼と話すことが、日課となっていた。
(2)
天涯孤独――私の今までの人生を一言で表すのに、これほどふさわしい言葉はないだろう。
両親の顔は知らない。物心ついたときはすでに故人で、小さな教会の神父が、親の代わりだった。
その神父も私が成人する前に亡くなり、同時に教会も廃れ、私はただ生きるために、教会の本拠地であるミュロンドに、僧侶として入信した。
信仰心があるのかはよく分からない。
でも、小さく訪れる人の少ない教会で育った私は、神に身を捧げることしか生きる術を知らなかった。
しかし私が僧侶として生きることで誰かが救われるのであればそれでいい、と漠然とした言葉を常に自分に言い聞かせ、ただ修練に明け暮れた。
それから十数年、気がつけば私は誰からも忘れられる存在になっていた。
元々人付き合いは苦手で、思い返してみても親代わりの神父以外と、まともに話した記憶がない。
誰かに自分を認めてもらいたいわけでもない、遊ぶことも一切しないことを疑問にも思ったことがない。
だから友と言う友もいなければ、話しかけてくる人間もいなくなっていた。
毎日行われる朝練は、ただその孤独を積み重ねていく苦行でしかなかった。
人は目の前にたくさんいるのに、私は名前すら呼ばれなくなっていた。
剣術もそれなりに身に着け、術も少しかじってみたが、自分よりも後に入信した者が先に騎士団へ呼ばれていく。
別に騎士団に入りたいというわけではないが、面白くない――そんな邪念に支配されそうになったことも何度かあった。
だから、朝練の前に、一人で鍛錬を重ねることにした。
この時間だけは自分が孤独であることも、嫉妬に近い邪念も忘れ、ただ修行に没頭することができた。
なのに、この孤独を満喫していた時間が、私にとっては唯一の、孤独ではない時間に変わってしまっていた。
「ローファルは術も使えるのか。知れば知るほど、貴方は相当な努力家ですね」
「少しだけですよ。陰陽術や風水術は、相手の動きを止めるのに使いやすいですし……」
こうした他愛のない会話が、楽しい――クレティアン様の存在は、私の中で日に日に大きくなっていた。
「貴方ほどの腕前なら、神殿騎士団にも入れるのでは? 僧侶が悪い……というわけではありませんが」
「騎士ですか……」
「興味ないのか?」
貴方にその気があれば私が推薦するのに、と彼は続けた。
彼は魔道士ではあるが、れっきとした神殿騎士団の……しかもエリート的な存在だ。彼の推薦があれば、私も騎士団に入ることができるかもしれない。
しかし……
「興味がないわけではありませんが……私に騎士という称号は、あまりにも重過ぎますよ」
「重い? 何故?」
「私には守るものがない……」
騎士とは大切な者を守る存在。でも、私には家族も、友人もいない。
神に身を捧げ人々を守る……というのも、本気でそう思っているだろう彼に対して、自分は建前にしか感じていない。
「ならば、何故貴方はここで鍛錬を積み重ねるのです?」
「……それしか生きる楽しみがありませんから」
「残念だな……」
小さくそうつぶやき、いたく悲しげな表情に変わる彼に、自分は何かまずいことを言ってしまったのだろうか……と不安になった。
「私は貴方とこうして話をしている時間が、とても楽しいのに」
「……え?」
「貴方の楽しみのうちに、私は含まれないのか。……残念です」
「い、いえ、そんなことは……」
そんなことは絶対にない。むしろ、最近は鍛錬することよりも、彼とこうして話をしている方が……
「冗談ですよ。貴方は本当に真面目だな」
「からかったのですか?」
先ほどの悲しげな表情と打って変わって、楽しそうに笑う彼を見て、真に受けた自分が少し恥ずかしくなった。
「違う。からかったんじゃない……貴方と一緒に戦えたらと思って……」
「私と……ですか?」
「いや、その、傍に守りたいと思う大切な友人がいれば、私ももっと強くなれる……自分勝手な話ですよ」
「友人? クレティアン様は私を友人……と?」
「当たり前でしょう? 貴方は私にとって、かけがえのない友人ですよ」
そう言って微笑む彼に、私は戸惑いを隠せなかった。
友人なんてできないし要らないと思っていたのに――その言葉が、私の心を強く揺さぶった。
「だから今から、クレティアン様……という呼び方はやめましょう。いや、やめよう? ローファル」
「しかしそれは……」
「誰も見ていないプライベートに、身分の差など関係ない。それに貴方の方が年上ですしね」
「クレティアンさ……」
「違う」
「……クレティアン」
「そうだ。……ふ、ふふっ……そんなに恥ずかしそうに言われたら、私まで恥ずかしくなってしまうだろう」
彼の笑い声に、私もつられて吹き出してしまう。こんなに笑うのはどれだけ久しいことだろう。
そして、二人分の笑い声が、起床と朝の礼拝を告げる教会の鐘の音にかき消された。
「ああ、もうこんな時間か。……また明日、ローファル」
「また明日、クレティアン」
足早に去るクレティアンの姿を見て、騎士団に入団申請するのも悪くないかもしれない、と思った。
ただの話し相手じゃない。彼を守る騎士になりたい――心からそう感じた。
それから数日後のある日、私はいつもよりも早い時間に目が覚めた。
寝なおそうか――とも思ったが、いっそ早めに鍛錬を終えて、いつもこちらが終わるのを待ってくれる彼と長く話すのも悪くないか、と、私はそのまま他の僧侶を起こさぬよう、外へ出た。
「まださすがに暗いか……ん、あれは?」
教会の庭を一人歩く影を見つける。クレティアンではなかったが、見たことのある姿だった。神殿騎士団の団長、ヴォルマルフ様だ。
(何故ヴォルマルフ様がこんな時間に?)
見間違いか、とも思ったが、気になってその人影をこっそり追ってみると、その影は、今は使われていない古い礼拝堂へと消えていった。
扉が完全に閉まる前に中へ入ると、もう一人誰かの気配があり、慌てて姿を隠す。
「ジェミニ……か」
ヴォルマルフ様が呟き、もう一人の男の手にある、淡く輝くクリスタルを手にした。
「ええ。しかし我々の声にも反応しない……深い眠りについているようですね」
「相応しい肉体とその者の強い願いがあれば目覚めるさ。我々がそうであったように」
転生? 相応しい肉体? ……彼らが何を言っているのか、全く検討もつかない。
よく見てみると、もう一人の男も高名な人物だった。ドラクロワ枢機卿――ライオネルを統括する、教会の中でも大幹部と言える人物だ。
なぜこんな人気のない場所で、ヴォルマルフ様と話をしているのだろうか……。
「我々は相応しい肉体が傍にありタイミングも良かったからこうして転生できておりますが、新たに素材を見つけるのは時間がかかるでしょうな」
「ふむ……ではいっそ候補に挙げられそうな人物を、手当たり次第に殺ってみるか?」
命の危機に晒された時が最も我らを呼び覚ますからな、とヴォルマルフ様が続けた。
「なりません、ヴォルマルフ殿。まだその時期ではない」
「だがこの様子だと、じきに戦争も終わるぞ。平穏な世の中では、容易に血を流させることもできん」
「大丈夫。少しすれば再び戦乱が始まりましょう。腐敗した王家、疲弊した民……この世は悲しみと憎しみで満ちている。我々はその中で、相応しい肉体を捜し、コンタクトを取ればいいのですよ」
貴方は少々やり方が目立ちすぎるのですよと、ドラクロワ枢機卿が口元を歪ませた。
まるで、悪魔のような会話――私は、見てはいけないものを見てしまったと本能的に感じ、その場を後にしようとしたのだが。
「!? 誰だッ!」
「……ッ!」
「おやおや、ネズミが一匹紛れ込んでいたようですな。だからここへ来るときは気をつけよと申したのですよ、ヴォルマルフ殿……」
「ふん、ここで殺せば問題あるまい……僧侶が一人失踪した程度、大した事件にもなるまいよ」
ヴォルマルフ様から発せられる強い殺気に、私は慌てて剣を抜こうとしたが、それよりも早く、ヴォルマルフ様の腕が、私の身体を貫いた。
「がっ……う、あ……」
視界がぼやけ、剣が地に落ちる音が礼拝堂に響いた。
「声は出すなよ……でないと、気づいた人間を全て殺さねばならなくなる」
人間とは思えない力。そして残虐な笑み――何が何だか分からないまま、ヴォルマルフ様の腕が私の身体から抜かれた。
同時に、大量の血液が宙を舞う。
朦朧とする意識でヴォルマルフ様を見上げようとすると、そこに立っているのはヴォルマルフ様ではなく、獅子のような異形の者――悪魔 だった。
窓からうっすらと差し込んでいた光が、その姿を禍々しくも美しく照らしていた。
(そうだ……声を上げれば確実に彼も殺される……)
頭の中は思ったよりも冷静だった。起きて礼拝堂へ向かうだろう、彼の姿が頭をよぎった。
この礼拝堂と、彼がいつも祈りを捧げている新しい礼拝堂までの距離はそう遠くない。
ここまで静かな時間にそれだけの音がすれば、きっと彼はここへ来てしまうだろう。
彼まで殺させるわけにはいかない。例えここで自分が死んでも、彼には生きていて欲しい。
友人だと言ってくれた彼は、私が死ねば悲しむだろうか。彼を悲しませるか、共に殺されるか……答えはひとつしかなかった。
「どうぞ殺してください……今ここで殺されても、未練はありません」
「欲のない男だ。これではジェミニも呼び覚まされない……せめて聖天使に捧げる生贄にでもなってもらおうか」
「お待ちなさい、ヴォルマルフ……いえ、ハシュマリム」
再び私に迫る異形の者の腕を、後ろの枢機卿の言葉が遮った。
今まで傍観していた彼だったが、私に近づき、横に落ちた剣を拾い上げた。
「中々使い込まれた剣ですね。それにこんな時間に修練とは、熱心な僧侶ではありませんか。殺してしまうなど勿体無い……」
「見逃せと言うのか? 正体を見られたのだぞ」
「選ばせてあげてもいいのではないかと思いましてね? ねえ、貴方……我々と契約を交わしませんか?」
「……けい、やく……?」
相手の意図が全く読めず聞き返したが、彼は「契約ですよ」と冷たい笑みを浮かべ、続けた。
「貴方には我々と同様の力を授けましょう。代わりに、我々の計画のお手伝いをしていただきたいのです」
「気でも狂ったかキュクレイン。こんな脆弱な人間に何ができる」
「人間だからこそ、です。我々は立場上目立ちますからね……このようなことが何度も続いてはいけない。そのためには味方が多くなければ」
「この男を駒にすると言うことか?」
「ええ。中々の逸材かもしれませんよ? こんな状況なのに、逃げ出そうともしなければ、泣き叫ぶわけでもない……あくまで冷静だ。何故でしょうね?」
私の事はそっちのけで会話をしていた二人だったが、キュクレインと呼ばれた枢機卿の姿をした男が、私に問いかけた。
「例え貴方がたがこれから多くの人を殺すことになっても……今殺されたくない人がいるからだ……」
「ほう? 貴方は一人を救うためなら、他が犠牲になってもいいと?」
私はその問いかけには答えられなかった。クレティアンと将来の犠牲を天秤にかけたつもりはなかったからだ。
でも、確かにそう聞こえる答えだったか――私の口からは死にそうであるにも関わらず、自然と笑みがこぼれた。
「まあ良い。キュクレインの小言を聞きながら忍んで聖石を探すのにも飽きたところだ……本当に使えるかは分からんが、とりあえず貴様を飼う事にしよう」
ヴォルマルフ様だった異形の者の手が、私の頭をぐっと掴んだ。
「ッ……何を……?」
「殺す訳じゃないさ……人間としての生は、捨ててもらうことになるがな。そういえば名前も聞いていなかったな?」
「ローファル……」
「先ほども言ったが、声は上げるなよ。私の可愛い手足となってくれ、ローファル」
掴まれた頭に、電気のような激しい何かが流れ込む。
「うっあっ……くッ……」
「いい子だ……」
必死で声を抑える私に、異形の者は満足そうに呟いた。
しばらくすると、あれほどえぐられた身体の痛みがなくなり、頭の中に、声が響いた。
その声は、彼らが何者で、私が何者になって、そして何をすればいいのかを語りかけた。
彼らは伝説の悪魔ルカヴィ――グレパドス教の裏にある真実――その眷属として、聖石を集めよ
(クレティアン……)
彼の信じていた神が私の中で黒く染まっていき、そしてそれが快感と感じるのに、そう時間はかからなかった。