男は教会の墓地で一人、そっと一つの墓に花を添え、天を仰いだ。

 墓に眠るのは彼の妻だった。彼女は五年前にこの世から去っていた。

 

 

 

悪魔との契約 -Side V-




 男は思い出していた、彼女の最期の言葉……

「二人の子供をよろしくね」

 男が彼女の手を取り微笑むと、彼女は笑顔で永遠の眠りについた。


 そして彼女の死後からわずか数週間後、男は身体の不調から、休養を余儀なくされることとなった。
 見舞いに来る二人の子供に、男は「少し働きすぎただけだ」と笑った。

 しかし男は心の底で、一人焦燥感と戦っていた。
 その身体の不調、症状……男は心当たりがあった。違和感は妻が亡くなる前からあった。
 これは単なる過労ではない――

 そう、男もまた……妻と同じ病に侵されていたのだ。



 男は誰にもいえなかった。
 日に日に弱っていく妻、気丈に看病しつつも不安を隠せない娘、状況がまだ分かっていないあどけない息子。
 男は父として、夫として、弱音を吐くことが出来なかった。
 ましてやもうすぐ自分も死ぬかもしれないなど、誰に言えようか。


 しかしそれも限界だった。
 妻の病の進行を見てきた限り、あと1ヶ月もあれば仕事どころか動けなくなるだろう。そしてやがて死ぬ……。


――妻との約束を裏切り、二人の子の成長を見守ることもなく……私は死ぬのか?



 男はそんなある日の夜、一人礼拝堂で祈りを捧げた。

「あと数年でいい。……神よ、私に奇跡を」

 男の切実な願いが言葉になった時、我は深い眠りから覚醒した。




「な、何だ……? 聖石が……喋っているのか!?」

 男は驚いたように声を発した。無理もないことだろう。
 彼らにとって我は「伝説」であり、礼拝堂に安置していたこの聖石も、ただの神器だと信じられていたのだから。

 我は説明した。
 男の複雑な心境はずっと我に届いていたこと、そして今宵の祈りによって我が目覚めたこと、そして我と契約を交わせば永遠の命が得られること。

「永遠の命……か」

――そうだ。お前は我にふさわしい肉体となろう。我と一体になれば、病ごときで苦しむことはなくなる。
   何故なら……

「病とは無縁の、人知を超えた存在になれるから。そうだろう?」

 我の言葉を遮って、男は答えた。
 我が男の心境やその理由を見てきたかのように知っているのと同じく、男もまた知らぬうちに我の意識に入り込んでいた。
 契約、とは言ってはいるが、ほとんどの人間は我らの意識と溶け込むことでその自我を食われてしまうだろう。
 この男も同様――すでに我が意思の思うがままに、気づかぬうちにその自我は我のものとなっている――そのはずだった。

「……駄目だ。私は約束したのだ……二人の子供を一人前に育てると」

――安心しろ。人間を超えると言っても、姿が変わるわけではない。お前の記憶が失われることもない……お前のままいられるだろう

「悪魔に魂を売ることに抵抗はない。最終的に私でなくなっても構わん。
  だが……私の望む奇跡は永遠の命ではなく、人間として少しだけ生きながらえることだ」

――理解できんな。だが契約しないとなれば、お前にはここで死んでもらうぞ。我の正体を知った者を野放しにするほど我は馬鹿ではないぞ?

「それでは契約ではなくて脅迫だな……契約しないとは言っていない。ただ条件がある」

 意識は十分に溶け込んでいるはずなのに、我は男の意図が読みきれずにいた。
 契約はする、人間をやめてもいい、なのに今人間をやめたくない、そして今死にたくない――
 つまり人間のまま今生きたい? しかし何故人間であることにこだわるのか、我には理解できなかった。
 だがそれは、我自身が、この男にさらに興味を持った瞬間でもあった。

――言ってみろ。内容によっては聞いてやろう

「五年間私を人間のまま生かせ。引き換えに、その後は貴様の好きにするがいい」

――そこまでして子育てとやらをしたいのか? 五年後に我がその子供らをお前の姿で殺すかもしれないぞ?

「そうならぬように立派に育ててみせるさ……で、どうなんだ?」

 問う男に、我はその契約に乗ろう、と答えた。

――五年など我にとっては大した時間でもない。
   だが肝に銘じておけ、我をどうにかしようなどとは考えぬほうがいい

「少しでもそんなそぶりを私がすれば、その場で息の根を止めるがいい。どうせ筒抜けなのだろう?」

――分かっているではないか。では契約成立だ……我が名は統制者。統制者ハシュマリム。
  ヴォルマルフ・ティンジェルよ、五年の間、我はお前を、あらゆる死から守ることを約束しよう。
  その代わり、時が来れば我はお前の全てを奪い、我はお前に成り代わる。ついでに五年の間に少しでも出世してもらえると有難いな

「それは約束できないな……だが、努力はしよう。さあ、私と契約を、統制者よ」

 我は男――ヴォルマルフに、望むとおりの奇跡を与えた。




 その後のヴォルマルフの人生は、我から見ても素晴らしいものだった。
 二人の子供に剣を教え、人生を教える一方で、本人も常に鍛錬し、危険な任務にも積極的に赴き、誰もが尊敬する「神殿騎士団団長」の地位をも獲得した。

 ヴォルマルフは任務の中で何度か致命傷を負ったが、そんな時は我が力を与え、死の淵から救ってやった。
 他の者には決して悟られぬよう、自然に、そっとヴォルマルフを生かし続けた。



 そして時は経った。



『メリアドール・ティンジェルよ。そなたに”ディバインナイト”の称号を授けよう。
  貴殿が今後も神に身を捧げ、多くの命を救わんことを……』

 ヴォルマルフの実子の一人、姉メリアドールがついに名誉ある騎士の称号を教会より授かった。今日は教会でその儀式が行われていた。
 ヴォルマルフは神殿騎士の長として、娘の晴れ姿を近い場所で見つめていた。

 そして儀式を終えた後、娘はヴォルマルフの元へ駆けつけた。


「父上、晴れて今日よりディバインナイトとなりました……父上のご指導の賜物です」
「ああおめでとうメリアドール。だがそれは私のおかげではない。お前が努力をしたからだ」
「父さん……」

 儀式の最中は団長という立場を忘れず厳しい表情をしていたが、今のヴォルマルフは心底嬉しそうに、柔らかい表情で娘に微笑んだ。
 そして、一振りの剣を娘の前に差し出した。

「父さん、この剣は……」
「セイブザクイーン。私が昔使っていたものだ。もちろん手入れは怠っていない……この剣をお前に託す」

 娘は戸惑った様子で、剣を受け取れずにいた。

「いいの? この剣は母さんと婚約した時に教皇げい下から授かったものって……」
「お前が使ってくれたほうが母さんも喜ぶよ」

 そしてもう一度、娘に「受け取ってくれ」と剣を差し出した。娘は少し迷いを見せたが、そっと剣を受け取った。

「……分かりました。母さんの分も、私が父さんを守るわ」
「……」

 無言のヴォルマルフに、娘は慌てて言葉を正した。

「あ、過ぎた事を言ったわ……まだ私は父さんに比べたら半人前だものね。父さんからは、これからももっと多くのことを学びたい」
「甘えるな、メリアドール」
「……え?」

 ヴォルマルフは娘に背を向けて、続けた。

「騎士の称号を得た以上、お前は一人前だ。明日からイズルードもお前が稽古をつけてやれ。
 切磋琢磨して強くなれ。私に甘えるようでは、自分の身も守れんぞ……」

 ヴォルマルフの言葉に、娘は少しの間沈黙したが、セイブザクイーンを抱きかかえ、真っ直ぐヴォルマルフを見て答えた。

「はい、強くなります。あなたの目に適うほどの立派な騎士に、必ず。
 ……でも私は父さんの娘でいいのよね?」

 娘の言葉に、ヴォルマルフは再び娘に向き直り、視線を戻した。
 娘はもう一度ヴォルマルフに問うた。

「騎士としてだけじゃない。娘として、父である父さんを尊敬していていいのよね?」
「……もちろんだとも、我が娘よ」

 娘は安心した様子で、微笑んだ。

「ありがとう父さん、愛しているわ。……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ……」

 娘は一礼して、自分の部屋へと戻っていった。



 娘が去った後、男は花束と聖石を持って、妻の眠る墓地へと向かっていった。
 我と契約をしてから一度たりとも立ち寄らなかったこの場所へ足を運び、花束を墓前に供え、ヴォルマルフは手を合わせた。

「身勝手な私を許してくれ。私はお前の元へ行くことはできない」

 そして立ち上がり天を仰ぎ、しばらくして聖石を掲げて我を呼んだ。

――まだ約束の日まで数ヶ月ほどあるが、いいのか?

「構わん。これ以上はただ未練を残すだけ……イズルードはまだ半人前だが、それも時間の問題。私のやるべきことは終わったよ。
  今日で終わりにする。……今まで生かしてくれて有難う、ハシュマリム」

――良い、これは契約だ。それにこの年月、我もとても楽しめた。
   我はただ背中を守っただけのこと。この五年間が充実したのは、お前がそれだけ努力したということだ

「貴様が好き放題しようと、メリアドールとイズルードなら強く生きられるだろう」

――お前は息子と娘が生き延びれば、この世界がどうなっても構わないのか?

 我は五年間抱いていた疑問を、ヴォルマルフにぶつけた。
 人間として子息を育てきるために、自分は人間をやめ、今後多くの命が失われるであろうことを見過ごしたのだ。
 最低で自分勝手な男だ。だが子息に対する愛だけは本物だろう……我もそれだけは感じた。

「そんな私のエゴが貴様を呼び覚ましたのだろう?」

 我の問いかけに男は、そう答えた。
 我は声を上げて笑った。

――やはりお前は素晴らしい! 安心しろ、我はお前に成り代わる、つまり姿形はお前のままだ。
   我の障害にならなければ、お前の子息に手を出すようなことはせんよ……お前の子息に対する想いはずっと見てきたのだからな


「……さあ、私を食らい、殺すがいい! 私が契約を果たしたこと、ここに眠る妻が証人となってくれるだろう!」
 

 ヴォルマルフの言葉に我は力を込め、それに反応するように聖石が輝いた。
 我がヴォルマルフの意識の中へと入るとともにその輝きは消え、そして我は墓地に置かれた花束を一瞥し、その場を後にした。

 

 

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あとがき

メリアドールやイズルードが育ちのよさそうな立派な騎士になってると思うと、ヴォルマルフってきっといい騎士であり父親だったんだろうなと思って書きました。

ウィーグラフみたいにいきなり変貌したら絶対子供たちは分かると思ったので、私の中では約5年間ハシュマリムはヴォルマルフや畏国を観察した、ということになってます。私が書いたヴォルマルフ様のベースになってる小説。ハシュマリムもハシュマリムで、アルテマのためなら畏国を駆け回るし、何度でも自害してその魂を目覚めさせようとしているので、尽くすタイプだと思ってる(後に作品にしたけど)。

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